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佐賀地方裁判所 平成5年(ワ)25号 判決 1995年11月10日

原告

甲野太郎

右訴訟代理人弁護士

河西龍太郎

本多俊之

松田安正

平山泰士郎

東島浩幸

被告

西日本鉄道株式会社

右代表者代表取締役

橋本尚行

右訴訟代理人弁護士

国府敏男

古賀和孝

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

一  原告が被告に対し、雇用契約上の権利を有する地位にあることを確認する。

二  被告は、原告に対し、平成五年二月以降、毎月二三日限り、金六九万六五八九円を支払え。

三  被告は、原告に対し、金五〇〇万円及びこれに対する平成五年二月一八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

一  本件は、バスの旅客運送業等を営む株式会社である被告が、被告のバスの運転士である原告を、横領の意思で運賃を収受したこと等を理由として懲戒解雇に処したところ、原告が、<1>右横領の意思の不存在などを主張して右懲戒解雇処分の効力を争い、雇用契約上の権利を有する地位の確認と平均給与の支払を求め、また、<2>右懲戒解雇に至る経過及び結果において、被告が違法な行為をなし、原告に横領犯人の汚名を帰せしめ、もって、原告の名誉を毀損したとして不法行為による損害賠償及びその遅延損害金の支払を求めた事案である。

二  争いのない事実及び括弧内の証拠により認められる事実

1  被告は、鉄道やバス等による旅客運送業等を営む株式会社であり、原告は被告に雇用され、被告佐賀自動車営業所において、バスの運転士の業務に従事していたものである(争いのない事実)。

2  平成四年九月一四日、福岡空港午後八時一四分発佐賀駅バスセンター行きの高速バス(佐賀―福岡空港七番ダイヤ七八五一車)に原告が乗務中、佐賀農芸高校前バス停留所において、降車客が、三名分の運賃(三一五〇円)の支払のため、五〇〇〇円札を原告に差し出し、残額一五〇円を運賃箱に投入した。原告は、右降車客から右五〇〇〇円札を受け取り、予め会社から運賃の両替用に渡されていた一〇〇〇円札五枚の入った袋(以下「両替袋」という。)を破り、そのうち二〇〇〇円を釣銭として右降車客に手渡し、運賃に相当する一〇〇〇円札三枚を右両替袋を保管する袋(以下「回数券袋」という。)に入れた(以下、右原告の行為を「本件手取等行為」という。)(争いのない事実、<証拠・人証略>)。

3  被告においては、前記2のような降車客から両替のために金銭を受け取り、両替袋を降車客に渡さず、釣銭相当額のみを降車客に直接交付する行為を「手取り釣銭方式」と称し、手取り釣銭方式は被告において禁止していた。被告は、前記2のような降車客に遭遇した場合、一〇〇〇円札五枚の入った両替袋を直接降車客に手渡し、降車客において右袋を開封してもらい、そのうち運賃相当額三〇〇〇円を降車客自ら運賃箱に投入してもらうよう原告ら運転士に指導していた(争いのない事実及び弁論の全趣旨)。

4  被告は、原告に対し、本件手取等行為が懲戒処分に該当する事由のあったときにあたるとして、就業規則八条七号により、平成四年九月二四日付けで、翌二五日からの出勤停止を命じた。そして、被告は、原告が西鉄労働組合の組合員であったことから、労働協約三九条三項、三四条一項に基づいて、労働組合に原告の懲戒解雇処分を提案したところ、同組合は、同年一二月一四日右懲戒解雇を承認する旨の回答をした。そこで、被告は、原告に対し、同月一五日、本件手取等行為は就業規則六〇条三号及び一一号に該当するとして、懲戒解雇に処する旨の意思表示(以下「本件懲戒解雇」という。)をなした。なお、関連する被告の就業規則及び労働協約は左記のとおりである(争いのない事実、<証拠略>)。

就業規則(抜粋)

(懲戒事由)

第六〇条 社員が次の各号の一つに該当するときは、諭旨解雇または懲戒解雇に処する。ただし、情状により、出勤停止にとどめることがある。

3 上長の職務上の指示に反抗もしくは会社の諸規程、通達などに故意に違反しまたは越権専断の行為をしたとき

11 会社の現金、乗車券その他有価証券もしくは遺失物処理規則に定める遺失物を許可なく私用に供しまたは供そうとしたとき

労働協約(抜粋)

(解雇)

第三三条 会社は、組合員が次の各号の一つに該当するときは、解雇する。

3 諭旨解雇または懲戒解雇処分を受けたとき

(解雇の取扱い)

第三四条 前条第1号から第3号までの解雇は、労使協議会で決定する。ただし、提案された日から四カ月を経過しても解決しないときは、会社はこれを解雇することができる。

<2> 前項の期間内に組合が地方労働委員会または地方裁判所に提訴したときは、その期間中、従業員としての身分を保障する。

(懲戒の種類)

第三八条 懲戒は次の六種とする。

6 懲戒解雇

(懲戒の決定)

第三九条 前条第1号から第3号までの懲戒処分は、支部労使協議会で決定する。

<3> 第5号及び第6号の懲戒処分は、第三四条による。

三  争点

1  懲戒解雇事由(就業規則六〇条三号及び一一号に該当する事実)の存否

(一) 被告の主張

本件手取等行為は、被告の指導する前記二3の手順に違反するものであり、かつ、原告は、運賃である現金三〇〇〇円を横領する意図をもって手取りし、回数券袋の中に入れて保管していたものであるから、被告就業規則六〇条三号及び一一号に該当する。

(二) 原告の主張

原告は、降車客が急いでいるようだったので、自分で両替袋を破って釣銭の二〇〇〇円を降車客に渡し、運賃三〇〇〇円については、仕切り板が高かったので、運賃箱に入れるためには時間を要し他の乗客及びバスの後続車に迷惑を及ぼすので、後で運賃箱に入れればよいと思い回数券袋に入れたものである。したがって、原告が本件手取等行為を行なうについて横領の意図はない。よって、本件手取等行為は就業規則六〇条一一号に該当しない。

また、本件手取等行為は、右のとおりやむを得ずに出た行為であり、何ら非難されるものではない。そして、原告としても、顧客たちのために善意でなしたものであるから、会社の諸規定に違反するとの認識つまり故意がなかった。したがって、本件手取等行為は就業規則六〇条三号にも該当しない。

2  就業規則六〇条一一号該当事由がない場合の解雇の有効性

(一) 原告の主張

(1) 解雇権濫用

仮に、本件手取等行為が就業規則六〇条三号に該当するとしても、横領の意図がなければ、その違法の程度は微弱であるから、これのみを理由とする本件懲戒解雇は解雇権の濫用に当たり無効である。

(2) 公序良俗違反

右同様に、原告に就業規則六〇条三号に該当する事実があるとしても、横領目的のない単なる手取り釣銭方式禁止違反を理由に懲戒解雇することを容認する同規則六〇条三号は民法九〇条に違反し無効である。したがって、本件懲戒解雇は無効である。

3  名誉毀損の成否(本件懲戒解雇に至る手続の違法性)

(一) 原告の主張

本件懲戒解雇に至る経過及び結果において、被告は、原告に対し、次のとおり違法行為をなした。

(1) 巡回指導員によるおとり捜査

前記第二の二2で、佐賀農芸高校前バス停留所で五〇〇〇円札を原告に差し出した降車客は被告の巡回指導員である。被告はあえて「おとり」を使用して手取り釣銭方式禁止違反を誘発し、その違反者を懲戒解雇に処し、これを会社内に周知させて、もって手取り釣銭方式の禁止を会社内に浸透させようとしたものと考えられる。被告は、右巡回指導員を使用して原告を右「おとり」捜査のわなにかけたものである。

(2) 巡回指導員による調査の違法

被告の巡回指導員らは、前記第二の二2の事件の後、原告に対し、横領の意図を自白させるため、長時間にわたる苛酷な取調べをした。

(3) 懲戒解雇処分の違法

被告は、原告が横領の意図による手取り釣銭方式をした事実はないのにこれあるものとして原告に汚名を帰せしめ、原告を本件懲戒解雇に処し、これを会社内に公表した。

原告は、被告の右一連の行為により、その名誉を著しく傷つけられ、精神的苦痛を被ったが、その慰謝料額は四五〇万円を下らない。右不法行為によって原告は原告代理人に訴訟を委任したが、その費用は五〇万円である。

(二) 被告の認否

右(一)(1)ないし(3)の各事実は否認する。

第三争点に対する判断

一  争点1について

1  運賃の手取り釣銭方式に対する被告の対応及びそれに対する原告の認識

前記第二の二2及び3の各事実並びに証拠(<証拠・人証略>)によれば、次の事実が認められる。

(一) 被告にとってバスの運賃収入は、営業収入の大半を占め、会社経営の重要な基盤をなしているものであるが、他方、今日のワンマンバスでは、運賃収受業務を運転士が行い、乗務に就いて後は上司による直接の監視が及ばず、その運賃収受につき正確な証拠を残すことはその性質上困難であることから、仮にバスの乗務員による運賃の不正収受が放置されれば、被告の経営基盤を揺るがしかねない状況にあった。したがって、被告においては、従来からバス乗務員による運賃に関する不正行為を防止するため、運賃手取り釣銭方式の禁止、運賃を自己の管理下に置くことの禁止、運賃を所定の場所以外に保管しないこと、勤務中私金を携帯・所持しないこと等の諸点について、乗務員に配付される「乗務の手引」への記載、毎月開かれるグループ常会での指導、警告文の掲示等を通して徹底した指導が行なわれてきた。また、被告従業員で組織する労働組合の協力により、同労働組合においても、右諸点について、機関誌掲載、警告文の掲示等を通して指導が繰り返し行なわれてきた。さらに、被告においては、横領の意図が推認される運賃不正収受行為を行なった者に対しては懲戒解雇処分に処するなどの厳重処分をもって臨んできた。

(二) 特に、原告の所属する佐賀自動車営業所においては、運賃収受に関して、本件前約九か月間に次のような指導等がなされた。

(1) 平成三年一二月二〇日、同営業所において、本件に類似する手取り釣銭方式禁止違反事件(福岡天神バスセンター一八時五五分発佐賀駅バスセンター行き高速バスに乗務していた運転士T某が、本件と同じ佐賀農芸高校前停留所において五〇〇〇円札の両替客に対して、手取り釣銭方式を行ない、運賃である一〇〇〇円札を運賃箱に投入することなく、回数券袋に入れ、そのまま終点の佐賀駅バスセンターまで行き、巡視員の指摘を受けたというもの。以下「T事件」という。)が発生した。

(2) この事件をきっかけとして、その翌日、同営業所所長は「(1)運賃収受は確実に手順どおりおこなうこと、(2)運賃手取り方式の禁止、(3)現金を所定以外の場所に保管しないこと」等の文言を大書した「不規律行為の防止について」と題する文章を掲示して乗務員らに警告を発し、これを読んだ乗務員に対しては読了確認の押印を求め、原告もこれを確認の上押印していた。また、右所長は、右事件を契機としてその指導の徹底を図るために、同営業所の全乗務員に対して個人面接を行ない、乗務員に対して次のような指導を行なった。すなわち、右T事件が乗務員に両替袋を持たせたために起こったことから、両替袋を乗務員が所持しないようにした方がよいかを各被面接者に尋ねたところ、両替袋は乗務員に所持させてほしいとのことであったため、その点は従来どおりとし、その代わり、今後、手取り釣銭方式は絶対しないようにとの指導が各被面接者に対してなされた。その際、「お客様からの、両替については、釣銭取り扱いはいたしません。」等を記載した誓約書を乗務員に提出させるなどし、原告もその誓約書を提出した。

(3) そして、右T事件において懲戒解雇処分が発令となった直後の平成四年三月ころには、同営業所を統括している被告の久留米自動車営業部の部長名で「平成二年九月に続き昨年末にも、再度不規律行為が発生し、そのために職場を去っていく者がいることは誠に遺憾である。一時の出来心や感情から二度と取り返しのつかない過ちを決して起こさないよう下記の事項(<1>運賃収受は確実に手順どおりおこなうこと、<2>運賃手取り・釣銭方式の禁止、<3>現金を所定以外の場所には保管しないこと等)を厳守し、規律ある明るい職場づくりに邁進されることを要望する。」等を大書した「警告」と題する文章を同営業所に掲示した。

(4) さらに、毎月開催されるグループ常会等でも、ほとんど毎月のように運賃不正収受の防止に関する指導が行なわれた。特に、平成四年四月五日には、被告大牟田営業所所属のバス乗務員が三井グリーンランド正門前バス停留所において、横領目的で運賃の手取り釣銭方式を行った事件が発生し、グループ常会等でこれを佐賀自動車営業所内の乗務員に告知するとともに所定の運賃取扱を遵守するように注意した。

(5) また、同年七月八日、手取り釣銭方式禁止違反による懲戒解雇が争われた事件(被告バス運転士Hと被告間の地位保全、賃金仮払い仮処分申立事件。以下「H裁判」という。)で被告が勝訴した際は、同月一七日付けで、その決定要旨及び警告を記述した「金銭関係不規律行為の裁判について」と題する自動車局長通達を各乗務員に配付、あるいは同営業所の掲示板に掲示し、これを読んだ乗務員に対しては読了確認の押印を求め、原告もこれを確認の上押印していた。

(6) 他方、被告においては、被告乗務員の乗車するバスの運賃箱運転席側に高い遮へい板を取り付けるなどして手取り釣銭方式を事実上行いにくくするような措置も取られており、原告が乗車していた本件バスにもこのような高い遮へい板が取り付けられていた。

(三) 原告は、昭和四〇年四月に被告に採用され、以来、本件懲戒解雇処分を受けるまで約二七年にわたり、主にバス乗務員として被告に勤務し、また、昭和六三年以降は西鉄労働組合の佐賀分会の教宣部長(被告や労働組合の示達事項等を掲示するなどの役務を行なう役職)を勤めていたもので、前記(一)のような被告の運賃取扱いに関する指導が厳格に行なわれていたことを認識していた。また、前記(二)(2)のとおり、T事件について、原告はその概要を概ね認識していた上、同営業所所長名の掲示文について、原告は読了確認の押印をし、平成三年一二月三〇日の個人面接の際には、被告に対して「お客様からの、両替については、釣銭取り扱いはいたしません。」等を記載した誓約書を提出している。さらに、前記(二)(5)のとおり、原告はH裁判の決定要旨の記載された掲示物を読了し、読了確認の押印もしている。原告は、本件バスに高い遮へい板が取り付けられている意味も十分理解していた。

2  本件手取等行為に至る経緯及びその後の原告の態度

前記第二の二2の認定事実及び前掲各証拠によれば、以下の事実が認められる。

(一) 原告は、平成四年九月一四日、佐賀―福岡空港七番ダイヤ七八五一車(以下「本件バス」という。)に乗務し、同日午後八時一四分福岡空港を発車し、高速道路を経由して佐賀駅バスセンターに向かった。

(二) 右乗務中、佐賀農芸高校前バス停留所において、降車客が、「空港から三人分です。」といって五〇〇〇円札を差し出し、原告がこれを受け取ると、その降車客は「一五〇円はあります。」と言って一五〇円を運賃箱に投入した。そこで、原告は、自動両替器のキーにかけていた回数券袋から一〇〇〇円札五枚の入った本件両替袋を取り出して、そのまま降車客に渡すべきところ、前記被告の指導に従わず、両替袋を自分で破って釣銭の二〇〇〇円だけを降車客に渡し、その後は運賃三〇〇〇円は運賃箱に投入せず、降車客が出した五〇〇〇円と一緒に回数券袋に入れ、本件手取等行為をなして本件バスを発車した。

(三) その後、終点佐賀駅バスセンターまでの間に、国立病院前と佐賀駅前でそれぞれ約一分の信号停車があったが、その停車中右運賃を運賃箱に投入する様子は窺われず、終点の佐賀駅バスセンターに到着した際にも、最後の乗客が降車し、被告巡回指導員(運転操作、運転士の乗客に対する接遇、運賃収受の適正の有無等の確認・報告を業務内容とする被告本社自動車局業務部付事務員。以下「巡視員」という。)石橋正則に指摘されるまで右三〇〇〇円を回数券袋に入れたままの状態にしていた。

(四) 原告は、本件を現認した被告巡視員に摘発された後、被告巡視員自動車局業務部付き係長清原勝利(以下「清原」という。)により六日間にわたって事情聴取を受けた(以下「本件調査」という。)。その際、原告は、当初、本件手取り釣銭方式を行なったのは横領目的ではないと供述していたが、五日目の平成四年九月一八日の調査において、右清原から「運賃を回数券袋に入れてはならないこと、入れたらどんな処分があるかを十分周(ママ)知していて入れた、その瞬間の気持ちを話して下さい。」との問いに一五分間の沈黙を置き、さらに「(運賃を)持って帰るつもりはなかったか、一瞬魔が差したのではありませんか。」との問いに対して、原告は二、三回うなづき、また、「あなたが運賃を回数券袋に入れたのは魔が差したと理解していいですね。」と念を押すと、再びうなづき、横領の目的があったことを認めたとも受取れる趣旨の態度がみられた(この点、原告は、本人尋問において、右の事実を否定し、右の事実が記載された調査書が存在する(<証拠略>)点について、「当時ノイローゼとなっていた」とか「調査者を信頼していた」などの理由で右調査書の内容を確認せずにこれに署名捺印した旨供述するが、本件調査の際に発問の趣旨、調査書の内容を理解し得ない精神状態であったとは認められない(<人証略>)し、また、調査書の記載内容によっては懲戒解雇になるかもしれないという深刻な事態であるのに、調査者を信頼し調査書の内容を確認しないというのも不自然・不合理であり、右供述は採用できない。)。

3  原告の弁解の不合理性

(一) 原告は、本件手取等行為をした理由として、被告会社が定めたマニュアルどおりにすることは、降車客のためにならず、バスの発進が遅れ、他の乗客やバスの後続車に迷惑をかけることになる旨主張する。しかし、証拠(<人証略>)によれば、他の乗降客やバスの後続車に迷惑がかかるような状況は認められないばかりか、原告は、本人尋問においては、右主張にかかる事実を明確には供述していないこと等に照し、原告の右主張は採用し得ない。

(二) また、原告は、本件調査の際及び本人尋問において、本件手取等行為を行った理由について「降車客が急いでいるようだったため」である旨供述している。

しかしながら、前記2の事実及び証拠(<証拠・人証略>)によれば、本件の降車客は特段、原告に急いで欲しいとの申出をしておらず、また、急いでいた動作もしていないこと、原告が乗務した本件バスの乗客は概ね福岡空港からの旅客で、かつ右降車客が降車した時間帯も遅かったこと、右降車客は当該バス停留所での降車客九名のうち最後に降車した客であった(なお、同人の連れの降車客も五、六番目に降車したものである。)ことなどの事実が認められ、右の事実に照らせば、右降車客が急いでいたと判断する合理的な根拠に乏しいものといわなければならない。

なお、原告は、その本人尋問において、原告が本件降車客が急いでいると判断した根拠について、「本件降車客の連れの三人のうち、最初に降車した者が、『後から支払う(連れの者が支払うの意)。』と告げて降り、次に降車した者がさっと降り、そして三人目の本件降車客が三人分の運賃を支払う際に、右二番目に降車した客がバスの車外から『私もです(三人分の運賃には自分の分も含まれているという趣旨)。』と原告に呼びかけたという状況があって、右二番目の人の呼びかけを聞いて急いでいるものと判断した」旨供述しているが、右のような原告の認識した状況だけで、右のような判断をするというのはそれ自体不自然といわなければならない。

結局、右の諸点に照らすと、本件手取等行為を行った理由についての原告の弁解は不自然といわざるを得ず、原告が本件手取等行為をしなければならない必要性はなかったものといわなければならない。

(三) さらに、原告は、本人尋問において、手取りした運賃を運賃箱に入れず、終点の佐賀駅バスセンターに至るまで放置していた理由について「運転席と運賃箱の間の遮へい板が高かったから、その場では手取りした運賃を運賃箱に入れなかった。手取りした運賃は、終点の佐賀駅バスセンターで降車客がすべて降りてから運賃箱に入れればよいと思った。」と供述し、運賃を横領する意図がなかった理由として同旨の主張をしている。

しかしながら、そもそも右遮へい板は手取り釣銭方式を事実上行いにくくするために設けられたものである上、証拠(<証拠・人証略>)によれば、右遮へい板が高い場合においても運転士が運転席から少し腰をあげれば手取りした運賃を運賃箱に投入することも可能であること(検証の結果によれば、原告が検証時のバスの運転席に座り、シートベルトを着用したまま運賃箱の投入口に左手が近づくような無理な姿勢をとった場合にも、原告本人の左肘が運賃箱遮へい板の上部止め金に当たる程度であって運賃箱の投入口には手が届かなかったことが認められるところ、仮に本件時にも、シートベルトを着用したままでは同様な状態であったとして、手取りした運賃を運賃箱に投ずるのにシートベルトを取り外すことを要するとしても、これに支障があるとは認められない。)、手取りした運賃を回数券袋に入れる時間とこれを運賃箱に投入する時間を比較した場合、右のシートベルトの取外しに要する時間を考慮しても、その差はせいぜい十数秒程度であるにすぎないこと、以上の事実が認められる。また、前記2(三)の事実によれば、原告が佐賀農芸高校前バス停留所を出発して終点の佐賀駅バスセンターに至るまでに、約一分ほどの信号停車が二回あったのであるから、その信号停車の際に本件運賃を運賃箱に投入することは可能であったと認められる。右各事実及び前記第三の一1(一)及び(二)のような厳しい会社の指導とりわけ本件同様に佐賀農芸高校前バス停留所で手取釣銭方式禁止違反を行い、終点の佐賀駅バスセンターで巡視員に指摘を受けたT事件の内容を原告は認識していたこと(前記第三の一1(三))、原告の同僚であった池松も、手取り釣銭方式をしたとしても、会社に厳しく指導されていたからすぐにそれを運賃箱に投入すると供述していること(<人証略>)を併せ考えると、原告と同じ状況下に置かれた運転士としては、運賃を手取りしたその場で、あるいは少なくとも右の信号停車の際に右運賃を運賃箱に投入しようとするのが通常であり、終点の佐賀駅バスセンターで入れればよいと思った旨の原告の弁解は不自然といわなければならない。

4  ところで、原告は、バス乗務の現場では手取り釣銭方式禁止の指導は徹底されておらず、乗客のサービスとバスの円滑な運行のために、手取り釣銭方式禁止違反は日常的に行われていたものであり、手取り釣銭方式を絶対的に禁止する被告の指導内容はバスの乗務の現場での感覚に遊離した不条理なものである旨主張する。

しかしながら、前記第三の一1(一)及び(二)に認定したような被告の指導の方法、程度、T事件に代表されるような事案でも厳しい処分をもって臨んできたこと、仮にやむを得ず手取り釣銭方式をした場合は速やかに運賃を運賃箱に入れるように指導していたこと(<証拠・人証略>)に鑑みれば、バスの乗務の現場でも、やむを得ない例外的場合を除いては手取り釣銭方式は厳に認められないものとして被告の指導が浸透していたものと推認される。また、証拠(<証拠・人証略>)によれば、被告においては、原則として手取り釣銭方式の禁止は絶対的であるとしていたものの、現実には、降車客が外国人、子供、お年寄り、身体障害者などでやむを得ず手取り釣銭方式禁止違反をしてしまった場合にまで右違反者を厳罰に処してはいなかったことが認められる。そして、被告にとってバスの運賃収入が会社経営の重要な基盤をなし、バス乗務員による運賃の不正収受が被告の経営基盤を揺るがしかねない状況にあることは前記のとおりである。これらの事実に照らすと、被告の指導内容は決して不条理なものとは解されない。

したがって、原告の右主張は採用できない。

5  また、原告は、被告以外のバス会社と被告とを比較して、横領目的での運賃不正収受による懲戒解雇事例は被告において突出して多い旨指摘する。

確かに、(証拠略)によれば、被告以外のバス会社では横領目的での運賃不正収受による懲戒解雇事例はほとんど見当たらないのに対し、被告では右懲戒解雇事例が多数認められる(<証拠略>)。

しかしながら、各バス会社において、運賃収受に関する指導の内容、監督の方法などはそれぞれ異なると考えられるので、一概に右の状況を比較することは相当でない。殊に、被告においては、昭和四五年に、被告営業所の一つである八幡営業所で、三十数人の乗務員らが合鍵を使用して運賃箱から金銭を集団で窃取するという事件(これは「八幡集団チャージ事件」と俗称される。)が発生し、当時、これがマスコミによって報道され、被告及び同社の労働組合も社会的信用を失墜した歴史的経過があり(<証拠・人証略>)、運賃不正収受の取締りには並々ならぬ強化を図っていたのであるから、その取締りの結果として多数の運賃不正収受事件が発覚したとしても不自然ではない。

したがって、原告の右指摘は相当でない。

6  以上検討したところによれば、原告は、被告が定めた手順どおりに処理することが困難な事情や運賃を手取りしなければならない事情も特に認められない状況下で、しかも、被告が運賃の手取り釣銭方式を厳禁し、これが発覚した場合には懲戒解雇も含めた厳しい処分で対処していたことを十分了知しながら本件手取等行為をなしていること、運賃である現金三〇〇〇円を手取りした後終点である佐賀駅バスセンターに到着し巡視員に摘発されるまでの間に、右運賃を運賃箱に入れることを妨げる事情は特に認められず、原告が、右いずれの時点かで、右運賃を運賃箱に投入することも可能であったにもかかわらず、原告は右の間、右運賃を運賃箱に投入する素振りをみせていないこと、本件手取等行為後の被告の本件調査の際の原告の態度、さらに、前記原告の弁解の不自然さ等を併せ考慮すると、原告の本件手取等行為は、被告の手取り釣銭方式禁止に故意に違反し、横領の意図のもとになされたものであり、手取りした運賃を私用に供しまたは供そうとしたもので、就業規則六〇条三号及び一一号に該当すると認めるのが相当である。

二  争点2について

右のとおり、原告には就業規則六〇条一一号に該当する事由があるから、右該当事由がないことを前提とした原告の主張は採用できない。

したがって、被告の本件懲戒解雇は有効であるから、原告の被告に対する雇用契約上の権利を有する地位確認請求及び解雇が無効であることを前提とする原告の平均給与の支払請求はいずれも理由がない。

三  争点3について

1  おとり捜査について

原告本人尋問の結果によれば、原告が、佐賀農芸高校前バス停留所で五〇〇〇円札を差し出した降車客は被告の巡視員であると主張する根拠は、<1>本件降車客が着ていた服装と本件摘発後に佐賀営業所で原告の運転するバスに乗り込んできて、原告の調査にも当たった巡視員の服装とが似ていたこと、<2>本件当日の一八時四〇分佐賀駅バスセンター発福岡空港行きのバスを原告が運行中に不自然な運賃の入れ方をする降車客が居たが、調査の際、調査官である清原は、右バスの運行中の事情聴取の際に何か異状はなかったかと何度も聞いており、右の事実を知っているかのようであったこと、<3>右調査の際、原告が右降車客は巡視ではないかと清原に尋ねたところ、清原は『巡視でも金を払えば客である。』と言って右降車客が巡視であることを否定しなかったことにある。しかしながら、右の事実だけでは右降車客が巡視員であると推認するに足りず、右<1>、<2>の点については裏付資料もない。

かえって、証拠(<人証略>)によれば、運賃の不正収受を摘発する被告巡視員は総人数八名にすぎないことが認められるところ、本件降車客が巡視員であるとすると、その降車客の連れの二名も巡視員であることになり、そうすると、原告を摘発した巡視員を含め四名の巡視員が原告の運転するバスに乗っていたことになるが、数少ない巡視員のうち、かかる多人数の巡視員がひとつのバスに乗り合わせると想定するのは不自然である。また、もし、前記降車客がいわゆる「おとり」として原告に横領の意思を誘発せしめる意図があるなら、原告に対して運賃の両替を急がせるような態度を示すのが自然であるところ、本件においては、そのような事実は認められない。さらに、証拠(<証拠・人証略>)によれば、原告は本件調査の際や労働組合の事実確認の際において、本件がおとり捜査である旨の指摘をしていなかったことが認められる。

以上の諸点に鑑みれば、前記降車客が被告の巡視員であり、原告をおとり捜査のわなにかけた旨の原告の主張は採用できない。

2  調査の相当性

証拠(<証拠・人証略>)によれば、本件調査の時間は、本件の発覚が夜間に及んだ事件当日は約一ないし二時間、その他の日は、午前一〇時から午後五時を越えない範囲であること、右調査は食事の時間の休憩だけでなく約三〇分ごとに休憩を取りながらなされていること、調査者の数も、質問者一名、筆記者一名の少人数によって行なわれたにすぎないこと、調査書作成後はこれを原告に確認させていること、原告が調査の内容に訂正を申し立てればこれに応じていること、調査の際は、調査者も原告の体調に配慮していたことが認められる。右の各事実に照らせば、調査の方法に相当性を欠く点があったとは認められない。

3  懲戒解雇の相当性

前記第三の一で判断したとおり、原告には本件手取り釣銭方式を行なうに当たって横領の意図があったと認められるから、被告が懲戒解雇処分をもって臨むのもやむを得ないところであり、その処分が違法とは認められない。

4  以上のとおりであるから、本件懲戒解雇に至る経過及び結果において、名誉毀損を構成するような違法もない。

四  よって、原告の請求はいずれも理由がない。

(裁判長裁判官 木下順太郎 裁判官 一木泰造 裁判官 遠藤俊郎)

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